【『あなたが苦しいのは社会システムが狂ってるからです』東大教授・安冨歩氏の発言になぜ共感が集まるのか。】の記事について書きました。
まず、安富歩氏のプロフィールはこちら。
やすとみ あゆむ 京都大学経済学部を卒業後、住友銀行に2年間勤務。97年、京大大学院経済学研究科から博士号(経済学)を取得した。2000年、東京大学大学院総合文化研究科助教授を経て09年に同大東洋文化研究所教授。14年から女性装を始める。著書に「生きる技法」「ありのままの私」、「マイケル・ジャクソンの思想」など。
ご存知の方も多いと思いますが、絵に描いたようなエリートで、50歳で女性装を始め、今や完全に女性です。2枚の画像は、ご本人で同一人物です。
2012年頃の姿。
現在の姿。
【「あなたが苦しいのは社会システムが狂ってるからです」東大教授・安冨歩氏の発言になぜ共感が集まるのか】の記事はこちらからどうぞ。
下記、記事の一部を引用。【不登校について考える記事です】
ーー安冨さんは著書で「人は、自分自身でないもののフリをしているからつらくなるんだ」と指摘されています。なぜこのような指摘をされたのでしょうか?
「自分自身になる」というのは、いわゆる「自分探し」のことではありません。「自分探し」なんてするだけムダです。だって、そもそも人は自分自身以外のものにはなれません。
でも多くの人は、想像力によって「自分じゃないもの」になりすましています。それをやめればいいだけなんですが、これがなかなかやめられないはずです。親に、そうなれと教え込まれているんです。
私の場合も「親の教え」にみごとにはまって京都大学へ入り、一流企業に就職しました。でも、京大に合格しても一流企業へ就職しても、全然うれしくなかったんです。
なぜうれしくなかったのかと言えば、そのときの私が「自分自身」ではなかったからです。「自分じゃないもの」がいくら成功したって、私がうれしいはずもありません。
◎つくられた自分だから
ゲームの「ポケモン」ってあるでしょ。受験や就職で戦っていたのは、私じゃなくて私の「ポケモン(社会に適応するためにつくられた自分)」だったんです。成功しても、それは私ではなく私の「ポケモン」が成功しているだけなので、うれしくないんです。私だけでなく、ほとんどの人がそうなんです。子どもは親の「ポケモン」だし、戦っているのは、その子自身の「ポケモン」なんです。
不登校・ひきこもりを生きる、というのはたいへんな苦悩を伴いますが、じつは私が教えている東大生も、内面の苦悩は、ほとんど同じだと感じています。前者は「自分自身じゃないもの」になろうとしてなれずに苦しみ、後者はなりきって苦しんでいる。でも「自分自身じゃないもののフリ」をすることをやめないかぎり、自分の人生は始まりません。
――なぜ人は「自分自身じゃないもの」をやめられないのでしょうか。
先ほども言ったように、子どものときから「親」に仕込まれているから、やめたくてもやめられないんです。
親になっている人は、現代社会のシステムに適応しているから「親」になれるんです。システムに適応している人が子どもを産むので、わが子もシステムに適応させようと思う。たいていの場合、それが子どもの苦しむ原因です。
もちろん、それは不登校の親にかぎったことではありません。ほとんどの人は狂ったシステムのなかで平然と生きています。現代の社会システムのなかでは、人は自分自身を殺さないといけない。そうしないと生きられない社会になっています。
たまに満員電車に乗ると「なんなんだ、これは」と恐ろしい気持ちになります。でもみんな平気で乗っている。平気なほうがおかしいんです。みなさんがふつうの人を見て、「なんであんなことができるの」と思ったら、それは正しい問いなんです。
――不登校をしている本人や親へのメッセージをお願いします。
「学校なんか行くな、行かせるな」と伝えたいですね。なぜならあそこはものすごく危険で無意味な場所だから。意味のない情報を詰め込まれたうえに、友だちにいじめられて自殺に追いこまれたり、教師がセクハラしたり、えこひいきしたりする。なんでそんな危険なところに行かなきゃいけないんですか。
そもそも学校のモデルは軍隊です。明治のはじめに読み書きそろばんと国民意識を植えつけるために学校をつくった。そんなことをいまだに続ける必要ないでしょ、と思うんです。
昔は学校へ行かないと何も習えなかった。どこにも知識がなかった。本を読むだけでもお金がかかるので、学校にアクセスしたほうが効率よかったんです。だけど時代が進むにつれて、本を自由に買えるようになった。さらに今ではインターネットがあるから、学びたいことを学びたいだけ、タダで学べる。そんな時代に学校に行く意味なんてそもそもないんですよ。
それに、知識というのは人に教えられて身につくものじゃありません。自分から学ばないと身につかないものです。「人に無理やり押しつけたって身につかない」、そんなこと本当は誰もがわかっていることでしょう。だから不登校はまったく問題じゃない。「不登校が問題になる社会」のほうが問題なんです。
『不登校新聞』編集長石井志昂氏の記事より引用
なかなか、刺激的な文章ですね。
私は、学校が『義務教育』であることに疑問を持っています。
知識を得るために、必ずしも学校が必要かと言ったら、今の日本の社会ではそうではないことは確かです。そして知識は、押し付けても身につかないことも、事実です。
昔、貧乏な暮らしをして親が子供を働かせていたような時代、そんな中でも強制的に子どもが学ぶことができるようにしたのが学校の義務教育です。
そういう意味での義務が、「行かないといけない」という義務に変わってしまっているのは怖い感覚さえあります。
実際、講師かなざわは、中学2年から3年の2年間、ほとんど学校に行っていませんでした。(卒業式はかろうじて参加)
『学校に行くと疲れてピアノの練習ができない、学校の勉強は私には必要ない』と考えたからです。当時の私、けっこうおもしろいですね(^_^;)
それまで、体育以外の通知表はオール5でしたが、行かなくなってからは、1,2,1,2・・・。
そのときの通知表、お見せしたいですが紛失しました。(T_T)
それでも、社会保険労務士という100人中5人程度しか受からない国家資格も取ったし、今こうして生計を立てることができ、かつ好きな仕事を得ることができています。
なぜ、『ピアノをしない、やめる』という選択は安易にできるのに、『学校のお勉強をしない、やめる』という選択肢はないのでしょうか?
いえいえ、ないのではありません。あるのです。
選択肢は他にもあるのです。