行田教室かなざわさちです。なんとなく学校の持久走の思い出話しをしていたときに、気づいたことがありました。
昔、小学、中学校でやる持久走は得意でしたが相当痩せ我慢しながら走っていました。
それでいつも、ビリの方とかでゆっくり走ってるように見える人はきっと楽をしてズルをしているんだと思っていました。
「ゆっくり走れていいな。こっちはこんなに苦しくても一生懸命走ってるのに」
と考えていました。
でも、そのビリの方だった夫に当時のことを聞いたら、
「速い人はいいな、きっと楽なんだろうな、こっちはこんなに一生懸命やっても遅くて苦しいのに。」
と思っていたようです。
速くてもそうでなくても、だいたいみんな同じことを考えていたのですね。
みんな苦しかったし、自分のできる範囲でベストを尽くしていたわけです。
成績がいいこと、スポーツが上手いこと、ピアノを上手に弾けることがイコール努力しているというわけでも、たくさん練習をしているというわけでも、真剣にやっているというわけでもありません。
ピアノに関して言えば少なくとも、現時点で30代半ば以降の人でピアノがうまい人は、練習というプロセス以前にもともと能力がある人だと思います。
そうして害を生み出すのは、上記のようなもともと能力のある人がピアノを教える立場になったときに自分がどうして弾けるのか分からないことです。
ただ能力があって弾けたけれど、なぜ弾けるのかを学んでいないピアノの先生は
「どうして弾けないのかしら」
というような八つ当たりみたいなセリフを言いだします。
『それを教えるのが仕事でしょ。。。(心の声)』
なぜ弾けるのかわかる、それは自分がどのように動いているかわかるということです。それはフェルデンクライスで学ぶことができます。(宣伝)
勉強やスポーツの世界はよくわかりませんが、日本という国の中ではピアノはただうまく弾ける人がえらくなったり影響力のある人になってしまうことが多いです。
今後変わっていくといいなと切実に思います。
何かがうまくできないからと言って、その子が怠けていたり努力不足なわけではありません。
みんなベストを尽くしています。